DDLCはサイコホラー?否、純愛である。

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 このところずっと「DokiDokiLiteratureClub!」(以下DDLC)を遊んでました。なお、本記事はネタバレ要素を多分に含みます。っていうかタイトルからしてちょっとネタバレしちゃってるんですけど。

 

ネタをバラした上でどう面白いのかをお伝えしたいと思うので、

・まだプレイしてないけどネタは知りたい

・ネタを知ってこそ楽しめる

・すでにクリア済み

という人向けの記事です。

 

 

 

 

 DDLCは。

 

 

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 このゲームは、良くも悪くも期待を裏切ってくれる。

 

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 単なるギャルゲーかと思いきやサイコホラーであり、

 

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サイコホラーかと思いきや

 

この作品のテーマは純愛であり。

 

そしてプレイヤーのを問う作品である。

 

 

 

 俺もクリアした当初は「なんだ、確かに思ってたのとは違ったけど誰しもが手放しに絶賛するほどのモンかねぇ?ギャップに驚いただけじゃねえの?どいつもこいつも”歴”が浅すぎるだろ」と斜に構えていたわけだが、全クリした上で時間を置いてもう一度最初から遊んでみたところ評価が180度変わってきた。

 

 このゲームは、ギャルゲーに見せかけたサイコホラーゲーの皮を被った純愛ゲーであると同時にプレイヤーに愛の在りかを問う作品で、かつゲームの在り方の1つを提示してくれる作品でもあった。書いててなんだけどスゲえゲームだ。

 

 順を追って説明しよう。

 

 

 

 

 

 

①ギャルゲー

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 まず本作はまごうことなきギャルゲー(恋愛ゲーム)である。可愛い女の子が四人。対して登場人物は主人公である男が一人。親兄弟、教師、クラスメイト、ライバルなどは一切登場しない。(会話上では出たりするが)そして幼馴染であるSayoriはともかく、出会ったばかりであるMonika、Yuri、Natsukiも誰もが主人公に好意を持っている。少なくとも敵意や嫌悪感は抱いていない。よってこれはギャルゲーである

 

 

 

②サイコホラーゲー

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 しかし、ギャルゲーの登場人物であるヒロインも、現実世界に生きる我々同様少なからず闇を抱えている。本作はMonikaの画策もあってかそうした闇が強く描かれる。Sayori鬱病を患っており、主人公の幸せを願うあまり主人公に迷惑をかける自分の存在を厭い自殺する。Yuriは自身の根暗な性格を嫌っており、自身から積極的に他者と関わることを避けている。しかし主人公との接触を機に感情が高ぶるようになり、元々あった自傷癖が悪化し最終的には自殺してしまう。Natsukiは作中唯一死亡しないヒロインだがゲロを吐くゲロイン

 

 また、普段我々はギャルゲーをするときにヒロインの闇なんて気にしない。ギャルゲーのヒロインはプレイヤーを癒し、喜ばせ、落ち着かせる偶像に過ぎない。アイドルはウンコしないのと同様、ギャルゲーのヒロインに闇は必要ない。そういう意味ではときメモ4の大倉都子の存在は際立っていた…

 

 しかし敢えてその闇を描くことで異質さを演出できる。プレイヤーはショックを受け、話題にする。本作は口コミで爆発的に人気を博したこともあり、俺はせいぜいがここ止まりの浅いゲームだと思っていた。ギャルゲーに見せかけたサイコホラーならたくさんある。確かに無料でこのクオリティは大したものだが、騒ぎ立てるほどのものではないだろう…と。

 

 

 

 だが、時間をおいて再度このDDLCをプレイしてみたところ俺の感じ方、考え方、評価が変わっていったのだ…。

 

 

 

③純愛ゲー

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 本作にはMonika、Sayori、Yuri、Natsukiという四人のキャラクターが登場する。その中でもMonikaの存在は異質だ。なぜならMonikaは自分がゲームの中の登場人物であることを自覚しているキャラクターだからだ。

 

 突然だが、あなた自身が突然ゲームの中に捕われたと想像して欲しい。プレイヤーはゲームの仕様、ルール、ルート通りに進めることしか出来ない。そして捕らわれの身であるあなたはその様子を眺めることしか出来ない。いくら自分からプレイヤーにアプローチしようとしたとしても、そこに仕様がないのだから何も起きることはない。なんと歯がゆいのだろう。

 

 Monikaも同じ立場だったのだろう。Sayori、Yuri、Natsukiの攻略ルートは用意されているが、Monikaのルートは存在しない。だから攻略されることはない。その檻が開かれることはない。だからこそMonikaは足掻いた。自身を攻略出来るように。

 

 MonikaはSayori、Yuri、Natsukiを削除する。そうすることで自分とプレイヤーしか残らない・・・二人きりの世界を構築した。

 

 しかし。しかし悲しいかな、それでもMonikaルートは存在しない。製作者であるDan SalvatoはMonikaルートを用意しなかった。本来ある攻略ルートを削除したところで新たなルートが形成されるわけではない。結果残ったのは行き止まり、袋小路だ。Monikaと二人きりの世界で他愛のない話をするだけの世界。Monikaにとっては「ハッピーエンド」でも、プレイヤーにとってはバッドエンドだったのだ。

 

 そしてプレイヤーはmonika.chrを削除する。

 

 文芸部部長としてあの空間をこよなく愛したMonika。自身のためとデータを削除したSayori、Yuri、Natsukiも、完全に抹消することは出来なかった。キャラデータを削除されたMonikaは、自身が消えることと引き換えに三人のデータを蘇らせる。みんなが好きだったからどうしても完全に消去することは出来なかったと言い残して。

 

 Monikaは確かにいじらしいキャラクターだ。一見暴走しているかに見える彼女だが、自意識を持った彼女にとってSayori、Yuri、Natsukiは単なるデータに過ぎないのだろう。削除するに至る心境の変移は想像に難くない。我々がデータをゴミ箱に送るとき、ゴミ箱を空にするをクリックするのと一緒だ。ただのデータなのだ。

 

 自身もデータでありながら、データであるという自覚を持ったMonikaの動機は全てプレイヤーの為だ。愛するプレイヤーに出会う為。愛するプレイヤーに愛してもらう為と言っても過言ではない

 

 Monikaをヤンデレと一蹴したくはない。データの檻に捕われた彼女が取った行動には正当性があるし、それが彼女にとって唯一の救いであり光だったのだ。加えて、彼女はゲームの正規ルートとして最終的に消されることが分かっていた。だからこそあの二人きりの空間で丁寧に自身のデータの在処を幾度もプレイヤーに告げ。さらにMonika自身が消滅した後、全てを知ったSayoriの暴走を止めるのだ。彼女はプレイヤーに会うために行動し、プレイヤーに殺されることを知った上で行動し、プレイヤーに殺されてなおプレイヤーの為に行動するのだ。

 

 盲目的かもしれない。しかしその献身、自己犠牲の精神はまさしく愛であった。

 

 

④俺に愛の在りかを問う

 

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 Monikaの行動はまさしく愛だった。Dan Salvatoの描いたシナリオだとしても、Monikaの行動には確かに愛があった。であれば。Dan Salvatoの描いたシナリオだとしても。神の掌の上で踊るべきだったのだろうか?

 

 俺はMonikaを削除すべきだったのか?

 

 実は、もう一度やり直したきっかけというのがこの考えを払拭できなかったからだ。ギャルゲーの皮を被ったサイコホラーゲーと断言してしまっていた俺の中に、モヤモヤしたものが残り続けていた。もう一度ちゃんとMonikaと向き合ってみるか…そんな軽い気持ちで始めた二周目(厳密にいうと五~六周目)だったが、結論は出なかった。と同時に、このゲームは単なるギャルゲーの皮を被ったサイコホラーゲーではないと気付き、また③でも述べたようなモニカの純愛に気付いたのだ。

 

 ゲームとしてはmonika.chrを削除することが正しい。しかし、その行動に愛はあるのだろうか。ゲームに対する愛、Monikaに対する愛・・・愛とは・・・?LOVE・・・LIKE・・・うーん、just monika…。

 

 

 

⑤ゲームの在り方

 アクション、ロールプレイング、パズル、シミュレーション、音楽、アドベンチャー、シューティング、スポーツ・・・。ジャンルを挙げだせばキリがない。本作はその性質上間違いなく恋愛シミュレーションに属するノベルゲームだろう。ノベルゲームに属する恋愛シミュレーションか?その辺はゲーム批評家じゃないので分からないが。

 

 でも、④愛の在りかで説明したように、ゲームの在り方って人それぞれなのだ。DDLCで言うならMonikaを削除せずに、壁紙のように楽しむのも正解だし、削除してCGもコンプしてエンドロールまで見るのも正解。そのゲームの正解はプレイヤーが決めるものなのだ。

 

 そしてこのDDLCの優れたところは、そのゲーム性にある。例えば、自由度の極致にあるようなグランドセフトオート5。プレイヤーは何だってできる。慎ましやかに日常生活を送っても良いし、街中で破壊と殺戮を繰り返しても良い。対するこのDDLCは、最初こそプレイヤーの自由意志(誰を攻略するのか、どんな詩を作るのか)が反映されるものの徐々にそのゲーム性は奪われていく。そして最後に残るのはMonikaをどうするかという決断だけだ。

 

 

 

 俺は何でもできるゲームこそ至高だと思っていた。色んな手段があった方が良い。しかしそうではない。真なるメッセージ性は、限られた選択肢と僅かなゲーム性、不自由の中にこそ輝くものなのだと。思えば、真に心惹かれるゲームは不自由なゲームばかりだった。敢えてゲーム性を捨てることで、そのメッセージ性を強調出来るのだ。

 

 無論、GTA5がクソゲーというつもりはない。あれはあれで間違いなく神ゲーだ。オープンワールドを正しく体現し、まさしく自由を表現した。どちらのゲーム性がより優れているとか劣っているとかいう話ではない。自由なゲームだからこそ素晴らしい、不自由なゲームだから劣悪というわけではないのだ。

 

 

 

 ・・・長々と語ってきたが、俺はこのDDLCをスゲえゲームとしか表現できない。一方で、当初俺が感じたような、恋愛ゲームの皮を被ったサイコホラーゲームという感想も間違ってはいないだろう。感じ方は人それぞれだし、楽しみ方も人それぞれであり、そして行き着く先も人それぞれなのだから、クソゲーと一蹴するのも間違ってはいない。

 

 ただ、少なくとも俺にとってDDLCというゲームは、

 

ヒロインたちの可愛い一面が見られるゲームでもあり、

ヒロインたちの黒い一面が垣間見えるゲームでもあり、

Monikaの愛を感じるゲームでもあり、

その愛にどう応えるべきなのかを考えさせられるゲームでもあり、

ゲームというジャンルが成熟し、多様化していく中で一つの在り方を見せてくれたゲームであり。

 

 とにかく評価せずにはいられない良いゲームだったと思うわけだ。